第2部 考察 今後の教員養成系大学・学部の課題 調査結果をふまえて

1 大学における教員養成の課題

1.独立行政法人化問題をかかえて

専門委員  浦 野 東洋一

 本報告書において、国立大学の独立行政法人化問題に言及しないわけにはゆかないであろう。
 周知のように、1999年9月20日に開催された国立大学長等会議で、文部省は「国立大学の独立行政法人化の検討方向」について説明した。その説明文書に、
@ 主務大臣による中期目標の指示
A 主務大臣による中期計画の認可
B 主務省に置かれる評価委員会による評価
C 中期目標期間終了時における主務大臣による検討
は、国としての必要最小限の関与として、避けられない、と明記している。
 これは、通則法の制度的枠組は国立大学の独法化についても貫徹するということ、別言すれば、国立大学の独法化に関して、国語的意味で文字通りの「特例法」が制定される余地はないということであろう。

 これも周知のように、少子化や行政改革の流れの中で、国立教員養成系大学・学部の教員養成課程の入学学生定員は、2万人(1985年)から1万5千人(1996年)へと削減された。さらに1998年から3年間で、5千人の削減が進行中である。学生定員の削減には、教員定数の削減が連動している。
 この間、教育と子どもの現実の問題状況はますます深刻になり、広範囲の教育改革が実施され、また教育職員免許法の大改正が2回おこなわれた。研究し、学生に教授し、社会(地域)のニーズに応えなければならない課題や研究分野は増大している。こうした研究・教育・社会貢献の必要性と教育学(教員養成)関係の教員定数削減とは相容れない。
 少し具体的にみてみると、1998年度から2000年度にかけておこなわれた教員養成課程入学定員のいわゆる五千人削減は、全国で200名を超える教官定員の削減をともなった。また、学部内における教員養成課程と新課程との学生の比率をみると、新課程の比率の方が大きい大学が7大学、等しい大学が5大学出現した。学部名称を変更した大学は9大学におよんだ。

 国(文部省)は、現行制度のもとでも、行政指導によってこれだけのことを実行できたのである。独法化すれば、国(主務大臣)は制度上は現在よりも強い権限をもつことになる。そのうえ、がんらい独法化のねらいは「効率化」「行財政改革」、にある。教員養成系大学・学部は、重大な岐路に立たされているというべきである。

1. いわゆる「5000名削減」問題に関して
 各大学・学部で計画した改組・改編の内容と文部省の行政指導の内容とが一致した例は少なく、多くの大学で「根本的修正」や「新たな計画の必要」を迫られた(11頁、図3)。
 独法化すると、主務大臣による中期目標の指示から主務大臣の検討という流れが周期的にくりかえされることになるので、多くの大学・学部でこの間体験した苦労が、常態化する心配がある。
 もっとも、1999年9月20日の国立大学長等会議で有馬文部大臣(当時)は、独法化して初めて可能となる事項として、「学科や専攻レベルの教育研究組織は各大学が自由に決定できる」「各大学は教職員定員の配置を柔軟におこなえる」ことをあげている。これが文字通りに、学科や課程の種類、学生と教職員の定員を大学が自由に決定できるというのであれば、この間多くの大学・学部が体験した苦労の一部は、独法化によって解消することになる。
 しかし実際には、財源の問題、卒業生の進路(教員就職率)の問題に加え、中期計画にかかわる問題(特に主務省による評価・検討)があり、さらに教育職員免許法による規制、課程認定等はそのまま存続するのであるから、独法化によって大学の自由度は狭まるのではないかと考えられる。
 いずれにしろ、こうした問題についての調査、検討が早急に必要である。文部省は情報を公開する責務があるし、学長・学部長には、情報を公開し、議論と研究を組織する責任があると考える。

2. いわゆる「統合型教員養成課程」問題について 
 統合型教員養成課程のデメリットとして、履習カリキュラムの過密化をあげている大学・学部が少なくない。この事実は、学生の系統的で深みのある学習・研究を阻害しているのではないかという問いだけでなく、大学は学生に豊かな教科外活動(課外活動)を保障しえているのかという問題を提起しているものと理解すべきであろう。
 最近の若い教員の傾向として、同僚、子ども、保護者などとの人間関係づくりの能力、人間を理解する力、あるいは人間関係調整能力とでもいうべき力が衰退しているということがあるようである。
 勿論、それには核家族化、少子化、情報化などの社会的背景があるであろうが、大学教育に即していえば、このような人間関係づくりの能力の形成には、自治会活動、サークル活動、ボランティア活動など、学生の自主的、自治的、集団的な活動こそあずかって力がある。このことは、多くの人の経験知であるといってよい。
 自主的、自治的、集団的な活動を経験したことのない教員が、はたして子どもたちのそうした活動をうまく指導・援助できるのか疑問である、といえば言い過ぎかも知れないが、大学には、学生のそのような活動を奨励し保障する責務があると考えるべきであろう。教員養成系の大学・学部については特に、このことが重要であると考える。
 このこととかかわって、学生の入学定員を学習・教育上の「適正規模」という視点からも検討してみる必要があろう。研究室やゼミに属する学生が、あまりにも少人数であることは、学習・教育条件としては望ましくないと考えられるからである。

3. 教員養成系大学・学部の今後の役割に関して
 このことについては、教員養成の役割に加えて、地域の教育研究の拠点となること、現職教育の機能を強めることが学部長、学長によって意図されている(16頁、図8、図9)。学長の場合には、教員養成の役割よりも生涯学習指導者養成などを重視しているようなふしすら感じられる。
 教員養成系大学・学部が、地域の実践的な教育研究のセンター及び大学院レベルの現職教育のセンターの役割を担うことは、社会的なニーズということからは必然的な方向であり、ぜひ実現したい事柄である。その際、学部での教員養成機能が軽視されてはならず、むしろ相乗作用が働くように企画、構想され、運営されなければならない。
 こう書くと、それはあまりにも当然のことのように思われるかも知れないが、実際にそれらを実行すれば、教員の研究と教育とサービスの分野、内容、質、方法などにかなり大きな変化をもたらすはずである。この変化を意識的に創造することが、今必要である。
 かねて「研究と教育」が大学教員の職務であるといわれてきたが、今それを各大学・学部が客観的に果たさなければならなくなっている役割との関連で分節化して表現してみる試み(各大学・学部に即した教員の職務の定式化の試み)と、その内容についてゆるやかな合意を形成するとり組みが必要であろう。
 そうしたとり組みなしに、相変わらず教員人事や自己評価、外部評価の際の評価の対象がいわゆるアカデミックなペーパー中心ということであれば(勿論その対極も困るのだが)、大学・学部改革は空洞化してしまうのではないか、と心配するからである。
 その際、「21世紀に向けた高等教育に関する世界宣言」(ユネスコ、1998年10月)及び「高等教育教育職員の地位に関する勧告」(ユネスコ、1997年10月)が参照されてよいであろう。

4. 「新課程」(非教員養成課程)及び「学科」に関して
 新課程に入学した学生にも教員になる道は開かれている。
 教員養成系大学・学部が有為な人材を教育界に送り出すには、優秀な生徒が入学してくることが望ましい。そのためには、
@ 科学的で厳格、人間的で誠実な教育、指導、サービスが大学で行なわれ、かつそのことが世間に知られること、
A 卒業後の進路の見通しがつくこと(就職等の実績があること)
 が、高校生の進路意識からみて必要である。
 前者のためには、広報活動(広報委員会・広報担当部の設置等)を大学の任務として明確に位置づけて、事業を展開する必要がある。
 後者のためには、就職対策・就職開拓活動(委員会・担当部の設置等)を大学の任務として積極的に位置づけて、事業を展開する必要がある。

5. 教員養成大学・学部と関係諸機関の連携について
 教員養成系大学・学部における研究が学校など教育実践の場と結びついていて、大学の教員と実践家との間のコミュニケーションが日常的に成立していることは、大学・学部が地域の実践的な教育研究のセンターへと発展していく上でも、関係諸機関との連携を深める上でも、その基礎的条件として重要である。
 大学・学部を卒業して教師となっていく者がいるのであるから、そのことを実現する方法は簡単である。つまり、すべての大学教員が個人のゼミ(研究室)の単位もしくは教室の単位で、卒業生を組織して研究会(学会)を発足させればよいのである。
 そうした研究会の合同研究会が、同窓会総会の実質的な内容となる、ということも構想されてよいであろう。大学側から働きかけて、同窓会の活動をそうした方向に改革し、活性化することが必要ではないかと考える。
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