第2部 提言の解説

1. 多様化する高校教育への対応

 大学入試は今日、高校教育と大学教育との「接続問題」として注目を浴びている。かつて学校システムはピラミッド型をなし入試選抜によって高校と大学が結ばれていた。いまや高校進学は全入に近く、大学・短大への進学も年齢人口の半数に達している。大学・学校システムの量的・質的変動を抜きにしては、大学入試の改革を考えることはむずかしく、しかも、18歳人口の急増急減の波が高校、大学を通過したあと、一部には、大学の収容力の過剰も顕在化してきている。国立大学といえども大学が入試の主導権を握ることはむずかしい時代に入ってきたのである。

(1) 大学での学習に必要な学力とは何か
 高校レベルの物理や化学、あるいは数学などの科目を新入生向けに開講する大学が増えている。これらの授業科目群は補習教育とかリメディアル教育とか呼ばれているが、その目的は大学へ入学したにもかかわらず、そのままでは正規の学習についていけない学生たちの学力向上にある。大学教育の補習ではなく、その学生が入学するまでに受けた教育のリメディアル(補正)に目的があることに特色がある。しかし、最近では高校教育の補習だけでなく、大学での学び方や日本語の読み・書き・話す能力の養成などにも関心が集まりそれらを含めて補正教育を実施するところも増えている。
 リメディアル教育が登場してきた背景をいえば、まず、大学入試制度の多様化、弾力化等の影響があげられる。この15年ほどの間に大学入試科目の削減、入試機会の複数化などが著しく増え、例えば理工系の入試でも、物理と化学の2科目指定からいまや2科目選択、あるいは理科1科目まで科目削減が進んできた。そのうち理系でも数学の微分積分を削るところも出てくる懸念もないとはいえない。入試の多様化は学力選抜の妥当性を向上させる方策として、また帰国子女や社会人、あるいは専門高校出身者など、一般の志願者とは異なった学習歴の持ち主に大学の門戸を開くことに狙いがあった。それが、少子化が騒がれはじめた頃から大学の生き残り策として経営戦略の前面に引き出され、変化が加速された。
 その結果、大学入試は受験生受けのよい負担の少ない形態に傾斜し、大学教育と学生との学力ギャップは入学後に持ちこされ、それがリメディアル教育の必要を生んだ。文部省の調査(「大学等におけるカリキュラム等の改革状況について」)によれば、1994(平成6)年から1998(平成10)年の間に全国の国公私立の大学で補習授業を実施している大学の数は66校から105校へ、うち国立大学では15校から43校(65学部)へ約3倍に増え、また同じ調査で、特定の高校科目について高校時代に未履修であった学生を対象にして、授業を開講している大学は65校から90校へ、うち国立大学は21校から31校(44学部)に増えている。
 リメディアル教育の形態は多様であるが、大学で高校レベルの科目を再履修させることが果たして大学のリメディアル教育になるのか、疑問視する向きもある。物理などの科目では、高校での科目内容に近づけすぎると、大学で教えようとしている概念の呑み込みがかえって悪くなるという意見もある。リメディアル教育が単に高校レベルの未履修科目を大学で教授し、知識・技能の補習を行うことでよいのか、という問題がここに在る。大学での学習困難科目を調査した結果(荒井編『大学のリメディアル教育』,1996)では、困難学生の半数は該当科目を高校で履修しており、なかには受験科目としても選択している者が少なからずいた。この結果は、大学での学習困難が単純に特定の高校科目の未履修だけから生じているのではないことを示唆している。 
 じつは、これと類似の知見を、センターが国立大学学部長を対象にして行った調査(鈴木・荒井・柳井,「大学生の学力低下に関する調査結果」『大学入試フォーラム』2000)からも見出すことができる。学生の学力低下の状況を尋ねた項目のなかで、「自主的、主体的に課題に取り組む意欲が低い」、「論理的に思考し、それを表現する力が弱い」の2つの選択肢に突出して8割の回答が集まったという結果である。この2つは回答率の高かった「基礎科目の理解不十分」(5割)、「外国語の基礎学力の低下」(5割)、「日本語の表現力の低下」(4割)をさえ大きく引き離していた。国立大学の教員たちが痛感しているのは、高校の個別科目の知識や技能の不足よりも、むしろ高校教育が目標そのものに据えている「学力」、即ち「自主的、主体的に課題に取り組む意欲」、「論理的に思考し、それを表現する力」の低下、不足を回答しているのである。

(2) 教育課程の多様化と科目履修の現状
 高等学校教育課程の多様化は1970年の学習指導要領の改訂にはじまり、さらに本格的な手直しが1978年の改訂で行われた。1960年代の普通科教育課程との比較でいえば、全体の卒業単位数が85から80単位へ削減され、必修単位数は68単位から32単位へ削減された。外国語が選択に回った影響もあるが、保健・芸術・体育を除く主要教科でいうと、その総単位数は59単位から半分の31単位に減っている。逆に、卒業単位数に占める選択科目の割合でいえば、1960年代から1980年代への変化は20%から40%へ倍増した。
 1980年代の教育課程の改訂はこれまでにない大胆なものであったが、これだけ大幅な変更であったにもかかわらず、進学校の教育課程がこれによって変わったという事実は確認されていない。教育課程の改訂は、当時はもっぱら非進学者向けへの対応、即ち高校進学率の増加に伴う対応とみなされていたからである。実際、共通1次試験がはじまってからすぐに学習指導要領の改訂時期を迎えたが、議論の末、結局、内容変更はなされぬまま、出題範囲は継続となっている。国公立大学への進学者にとって、「改訂」の影響はないとみなされたからである。
 ところが、学習指導要領の改訂によっても変わらなかった進学校の教育課程が共通1次試験の科目削減以降、にわかに変わりはじめる。理科、社会などの履修科目数が目に見えて減りはじめたことが複数の調査結果(国立教育研究所(1991),広島大学大学教育研究センター(1996),大学入試センター(2000)等)から推察できる。この事実は、高校教育をコントロールしているのは学習指導要領ではなく何より大学入試であったことを示唆している。それゆえ、その後の大学入試の変貌がどれほど高校教育へ甚大な影響をもたらしたか、想像するに難くないのである。

 提言1.1
 受験シフトに歯止めをかけ、高校が自らの教育目標を達成できるよう入試体制を整える。センター試験のア・ラ・カルト的科目利用はむしろ教育目標の達成を阻害する懸念があり、国立大学志願者については受験教科科目数の共通化を図る。

 わが国では偏差値受験の体制はなかなか変わろうとせず、1980年代半ばまでその体制が堅持されたが、大学進学率の高さからすれば、この時期、学力選抜がすでに選抜目的との妥当性からみてその限界に近づいていたことは容易に察しられる。この状況がガラリと変わっていくのは臨時教育審議会の「多様化」の答申が出た頃からである。    
 入試の多様化は評価測定の技術的側面からみて必然の要請であったと考えられるが、現実の入試は必ずしも合理的な方向、即ち評価の多元化や妥当性の向上には向かわず、むしろ受験生に受けのよい入試の軽減化の方向へ進んだ。関係者にとって志願者集めの好機とみなされたからであろう。その結果、1980年代後半から公立進学校の教育課程が変わり始める。
 高校での科目履修の減少傾向はこの頃からはじまり、「ゆとり教育」で確保された選択科目の自由度はそのまま進学校の受験シフトに転化されることになる。
 現行の教育課程になって2単位選択科目が導入されると、履修科目の数が増えただけでなく、センター試験の出題科目はもとより選択の幅も広がった。それにともなって、進学校の類型・コースのカリキュラムも差異が大きくなり、一度選択すると、後での進路変更はほとんど不可能になった。
 参考までに、最近の学生の履修状況をあげてみよう(荒井編『学生は高校で何を学んでくるか』,2000)。最近、国公立大学の理系に進学した学生たちの場合、化学はほぼ全員が履修しているという結果が得られている。しかし物理になると、2割強は履修しておらず、生物については4割強が履修していない。同じく国公立大学の理系の場合で、センター試験の物理を受験しているものは6割、個別学力検査で物理を受験しているものは4割である。この割合は前者が物理・Bの履修者、後者が物理・の履修者の割合に近いと推測されるが、そうであるとすれば、理系でも過半数が物理の上級科目を履修していないことになる。
 科目履修の組み合わせは、・A、・B、・のレベルを問わず、物理・化学の2科目履修組が4割、物理・化学・生物の3科目ないしは地学を含めて4科目の履修組が3割強である。つまり、残りは1科目以下となる。学習の幅が狭くなっただけでなく、深さ(レベルの高さ)も足りないといわざるをえない。
 他方、特別選抜の入学者に眼を向ければ、推薦入学者は1980年代中ごろから急速に増えはじめ、現在では大学入学者の3割(16万9千人;1999年) を占めるようになった。現役入学者に限っていえば4割近くを占める。推薦入学とは「入学定員の一部について出身学校長の推薦に基づき、学力検査を免除し調査書を主な資料として判定するもの」(文部省実施要項)であって、元来、入学者の3割も4割もというメジャーな入試になるような性格のものではない。学力偏重に反発する社会的風潮にあと押しされて普及したものであるが、大学(私立大学も含め)のなかには、推薦入学が学生集めの手段と化したところもないとはいえない。推薦入学は普及したものの、それによる高校教育の是正はみられていない。推薦入学の普及した15年間は受験シフトの細分化が進んだ15年間でもあったからである。

(3)  共通試験は何を測っているか

 1979(昭和54)年にはじまった共通1次試験は、まず国立大学の入試改革の一環として構想された。目的としたのは、難問奇問の解消、高校教育の是正、1次と2次試験によるきめ細かな選抜であった。共通1次試験は「高校教育における基礎的、一般的な学習の達成度を測る」ことを目的とし、国立大学の志願者全員が5教科7科目を受験するよう義務づけられた。5教科7科目の内訳は国語,社会、数学、理科、外国語の5教科、そして社会、理科のそれぞれ4科目から2科目選択であった。この教科科目の数と幅が、高校教育の達成度を測るうえで、必要最低限の範囲と判断されたのである。

 提言1.2 
 国立大学の入学選抜においては、センター試験を第1段階の、個別学力検査を第2段階の試験と位置付け、両者を総合して、合否判定を行うものとする。なお、各大学の個別学力検査では学科試験だけにとらわれない多元的な評価の方法を導入する。

 共通1次試験が開始される直前、学習指導要領の大幅な改訂が答申されたところで、関係者の間では、改訂による選択科目の増加が受験シフトを誘発するのではないかと心配されたことがある。結果的にみれば、共通1次試験の5教科7科目体制はその抑止効果をもしっかりと発揮した。さらに付け加えれば、共通1次試験の5教科7科目の重さは同時に、2次試験の負担を軽くし多様な評価を実現するための条件でもあったのである。
 共通1次試験に対する当時の批判は次の2点に集約される。第1は、受験生及び大学の一次元的序列化、輪切りを助長するという批判である。これはしかし、当時にあっては共通試験の宿命でもあった。国公立も私立も大学入試はすべて学力選抜という同じ構造に乗っていたからである。第2は、5教科7科目の試験科目は受験生にとって負担過重だという批判である。共通1次試験の導入と同時に、1期校・2期校の別が解消したことにより、国立大学への受験機会が原則1回に減少した。このため唯1回の試験機会のために5教科7科目の試験準備をすることは受験生にとって負担過重であり、私大専願者に比べて甚だ不利だという不満が鬱積したのである。2番目の問題については、共通1次試験が継続している途中で、手直しが行われた。5教科7科目のガイドラインを外し、5教科5科目あるいはそれ以下でも可とする修正が1987年度から実施された。
 また受験機会については、大学を2群に分けて個別試験を実施するいわゆる連続日程方式が同じ年度から導入されている。その後、試験科目のほうは大学入試センター試験に代わって(1990年)ア・ラ・カルト方式となり、受験機会の複数化については連続日程方式が廃止されて、各大学の募集定員を前期と後期に分ける分離分割方式へ統一(1997年)されることとなる。
 共通1次試験による序列化・輪切り批判への対応は結局、大学入試センター試験に衣替えする過程で、制度的な改変として行われた。センター試験をアラカルト方式にすることにより、5教科一斉試験ではなく、大学の利用によって1教科1科目の受験をも許容することにしたのである。これにより単純な序列化・輪切りはできにくくなり、さらにセンター試験を選抜試験ではなく到達度試験と位置付けたことにより、単位数、難易度の異なる科目をも同一科目の試験として入れ込むことが可能となった。その結果、現行の出題科目には、国語・、国語・・・、あるいは地歴、理科などのA、B科目が同列で選択可能となっている。これにより、センター試験による序列化・輪切りは一層困難になったのである。
 センター試験の抱える基本的な矛盾は高校教育における学習の到達度試験として制度的な理念を打ち出しながら、実態としては選抜試験として利用されているところにある。選抜試験の求める公平性からいえば、これは許されない。さらに疑問点をあげれば、高校教育における「基礎的な学習の達成度を測る」といいながら、高校教育の基礎がどのような科目で測れるのかを一向に明らかにしていないことである。高校教育における基礎的な学習の達成度を測る枠組みは各大学・学部の教科科目指定、その判断に委ねられている。
 高校教育と大学教育との接続とはそれぞれの教育段階の目標がいかなる関係にあるか、それが問われているのであり、高校科目と大学科目の連続性が問われているわけではない。  
 現在のセンター試験制度は発足から上記の矛盾を抱えている。

(4) 学力低下問題と大学入試
 学生の学力低下、学力不足問題は、一般に大学科目の基礎にあたるような高校科目の未履修、理解不十分に起因すると考えられている。だが、上に述べたように、補習教育等の分析を通して明らかになってきたのは、個別の高校科目の補習は必ずしも大学教育の補習にはならないという事実である。大学教育は基礎科目であれ専門科目であれ、特定の科目だけに基礎をおいているのではなく、高校教育が目標としている全体的な「学力」を基礎として接続している。その意味で共通試験が測るべき高校教育の達成度はまさに高校教育が目標とする「学力」そのものでなければならない。 
 また、教育課程の多様化、「ゆとり」教育の実施が学生の学力低下の一因になっているとする声も高い。これを否定するものではないが、高校教育に最も直接に影響するのはやはり、今なお大学入試の動向である。高校教育の体制がどうなるかは大学入試の学力評価の体制に依拠するところが大きい。ゆとり教育の理念は尊重するべきだが、試験科目が削減されれば高校生はその分だけ狭い学習に閉じこもり、細分化された受験シフトに埋没する。大学の収容力が過剰だといわれる今日、かつてのように大学が入試の主導権を握ることはきわめて困難になった。だが、国立大学が本提言において、あえてその事態に挑み、改善を図りたいとするのは、学生たちの知識の低下を恐れるのではなく、考える力、知力の低下があってはならないと考えるからである。

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