博士課程進学者の経済基盤を確保
日本初の卓越社会人博士制度
富士通が、修士の学位を持つ研究員を主な対象者として「博士号取得支援制度」をスタートさせたのは1998年のこと。「これまで(2025年12月時点)に、この制度を208名が利用している」と平松さんは言う。
これは、会社に籍を置いたまま、働きながら社員が希望するテーマの研究を大学で行い、博士号を取得するまでを支援する仕組み。当然ながら同社では、博士号を持つ新卒者の採用も行っているが、併せて在籍する社員のリスキリングとキャリアアップがこの制度のねらいだ。
「この支援制度は継続が重要だと考えています。これまでは毎年7名ほどを選抜して、大学に派遣していましたが、今年度からは年に20名程度までに枠を広げました」
これに加え、2021年度にスタートしたのが「卓越社会人博士制度」。新たな産学連携の仕組みだと言う。
「富士通が連携した大学の修士課程で学ぶ学生を対象に希望者を募ります。制度を利用することが決まった学生は、博士課程に進学すると同時に富士通に入社します。博士号取得に向けた研究をする一方、富士通では並行して関連するテーマの研究を業務として行ってもらいます」
日本初のこの制度は、九州大学との連携で始まり、その後に東京大学、東京科学大学、大阪大学との連携も実現した。現在は九州大学、東京大学、大阪大学の3大学で研究生6名がこれを利用し、2名がすでに博士号を取得している。

国際競争力の低下を招く「博士離れ」
日本企業にとっても深刻な問題
卓越社会人博士制度を導入した背景には、日本の学生の「博士離れ」に対する強い懸念があったと平松さんは語る。
「学生の博士号の取得者比率は、世界的には増加傾向にあります。しかし、日本では2003年をピークに博士課程に進学する学生の数が減少傾向にあります。博士人材の不足は、企業の研究開発力を弱め、日本の国際競争力の低下にもつながります。弊社のみならず、日本全体の科学技術の発展にとってゆゆしき問題だととらえました」
理工系の学部では、9割の学部生が修士課程へ進む。しかし、修士から博士課程に進むのは5~6%程度にすぎない。学費などの経済面と、博士号取得後の就職先の不安が問題として大きい。
コンバージングテクノロジー研究所に所属する紺野剛史さんは学生時代、博士課程への進学を断念した経験がある。
「親には『博士号を取って、そのあとどうするんだ』と言われましたし、指導教授にも取得後を心配され、思いとどまりました」
これが「博士離れ」の典型例と言える。平松さんら人事担当者は、学修費用と将来の問題を何とかしたい、また、在学中から社会課題解決を見据えた研究も同時に行いたい学生を支援したいと考え、卓越社会人博士制度を創設したのである。
博士号取得者の採用に壁となる研究テーマのミスマッチを解消
この制度の企業側のメリットは、結果として企業が望む博士号取得者と就業する研究者、相互の研究テーマのミスマッチを避けられることだ。
平松さんも「制度の利用者の選抜では、研究テーマのマッチングが最も重要」だと言うが、実は、企業の博士号取得者の採用では、研究テーマのミスマッチがひとつの大きな壁になっている。
文部科学省の科学技術・学術政策研究所が行った調査(※1)によると、回答企業約1900社のうち、新卒の博士課程修了者を採用しない理由に、半数余りが「マッチングがうまくいかなかったため」と回答している。
「特定分野の専門的知識を持っていても自社ですぐには活用できないから」、あるいは「社内の研究開発者の能力を高めるほうが、博士課程修了者を採用するよりも効果的」というのがその理由だ。
卓越社会人博士制度では、修士課程の段階で募集をかけ、互いの要望をすり合わせるので、研究テーマのミスマッチが生じず、しかも企業は自社の研究開発に見合う人材を獲得できる。双方にとってメリットの大きい制度である。

基礎的研究から社会実装へ
意識の変容も生んだ企業支援
人工知能研究所に所属する市川佑馬さんは、卓越社会人博士制度を利用して博士号を取得した研究員の1人である。出身は東京大学で、大学院では生成AIの技術に深く関わる深層学習の理論を研究していた。
「制度に応募したのは、例えばChatGPTのような生成AIの研究を、大学の設備規模では続けていくのが難しいと感じていたからです。大学よりも大きい企業研究所のスケールが一番の魅力でした。これなら、世界を変えられるような研究ができると感じて入社を決意しました」と語る。
昨年、博士号を取得したが、大学と富士通の双方での研究経験が、自身の研究に対する意識を変えたとも言う。
「同じ分野の研究でも、大学と企業とではかなり違いがあります。大学の研究は基礎科学寄りで、私は修士のとき、基礎科学に執着しすぎて、社会実装や社会への貢献といったことは考えていませんでした。対して企業での研究は、技術開発を前提としていますから、社会実装のための研究とはどういうものかをよく理解できました」
また、「会社の応用研究で生まれた問いが、大学の研究テーマに影響した」とも。「相乗的な効果があった」と感じたその手応えは、研究に取り組むモチベーションともなり、執筆論文数が増えたと言う。

博士号取得制度が広げる研究領域のダイナミズム
一方、博士号取得支援制度を利用した紺野さんは、博士課程に臨む学生と社会人の違いを次のように述べる。
「博士課程の学生は研究一辺倒になりがちです。しかし、社会人の博士課程は、人脈づくりの機会でもあります。私は、指導教授の所属する学会などに参加して、大学教授の人脈をつくっていくことにも注力していました」
紺野さんの博士号取得は、入社19年目のチャレンジ。
「私の開発した画像処理の技術が製品化されたのを機に、その技術をブラッシュアップするために、類似した研究を行っている筑波大学の研究室に入りました」と言う。
昨年、博士号を取得し、現在は文理の垣根を超え、多様な学術・技術の知見を活用した新製品開発に取り組んでいる。博士課程での人脈づくりの経験が役立っており、理工系にとどまらず、人文科学系の研究との接点も生まれている。
それを受けて平松さんは「大学と企業では研究の性質が違うとはいえ、それぞれ固有にシナジーを生み出す組織力を持っています。それが組み合わさることによる研究領域のダイナミズムには、予想を上回るものがあります」と、同社が取り組むような産学連携の人材育成に期待をかける。

大学時代から身につけてほしいキャリアオーナーシップの考え方
人事を担当する輿秀和さんによれば、富士通は2020年度から、人事制度の大幅な刷新を進めてきている。段階的に「ジョブ型人材マネジメント」を導入し、採用においても、学部卒や修士卒といった学歴別に一律に処遇するのではなく、ジョブレベルに応じた処遇へ切り替えた。2026年度入社者からは新卒一括採用も廃止する。
「 ジョブ型人材マネジメントのキーポイントのひとつはキャリアオーナーシップです。社員自らが主体的に自身のキャリア形成を考えてその実現を図り、会社がそれに見合う支援・処遇をする人事制度に大きく舵を切ったのです」
技術の進歩や産業構造の変化が急速に進む現代では、変化に対応するだけではなく、むしろ変化をつくり出す発想とその実現が求められる。そのためには、現状に甘んじず、常に新しい知識やスキルを身につけていくことは必須だ。
しかし、大学生の意識はどうか。人事を担当する一方、北海道大学大学院でキャリア意識・トランスファラブルスキル向上を主眼とした通年授業を受け持っている輿さんは「 学生たちには、まだまだ自らのキャリアを自らが築くという意識が薄いように思われます。キャリアオーナーシップの考え方を大学時代から学んでほしい」と言う。
また、平松さんは「今日の人材に求められるのは『トランスファラブルスキル』だ」と言う。それは自ら問いを立て、その解を深く追究する姿勢であり、学問や職業の枠を超えて、多様な知見や技術を応用していける技能だ。
「その点からも、社会人が博士号を取得する、あるいは博士課程の学生が、併せて社会人としての経験も積める環境を整え、広めていくことは、日本の社会全体にとっても非常に有益なことだと思います」

産学連携の博士人材育成を互いのニーズのすり合わせから
富士通の博士号取得を支援する制度は、文部科学省や経済産業省、そして経団連など産業界からも注目されている。
一方、本協会が昨年3月に発表した「国立大学の将来像」(※2)では、2040年を目途に博士号取得者数を現在の3倍にするという数値目標を掲げ、リカレント・リスキリング教育への積極的な対応も重要な施策に位置づけた。
平松さんは「産業界の立場からも、国立大学の取り組みを応援したい」としながらも、そこに介在する課題を指摘する。
「博士人材の育成は、大学と企業の双方にメリットがあります。けれど、われわれ企業にはどの大学でどのような研究が行われているのかがよくわからないし、それらの研究が社会人の仕事やキャリアアップにどう役立つのかも見えにくい。
そのあたりのすり合わせを密にしていかないと、卓越社会人博士制度のような産学連携による博士人材の育成は、なかなか広まらないように思います」
また、インターンシップの有効活用も考えてほしいと言う。「最近は、学部と修士の履修を5年一貫で組む考え方もありますね。例えば、そのなかに少なくとも3カ月くらいのインターンシップを入れ、実際的な社会人経験をしてもらう。そうすると、自分にはこういう専門性が必要だとか、ここをもっと深めたいといったことがわかります。博士号取得への意欲を持つ学生も増えるのではないでしょうか」
社会人博士取得支援制度の普及や、博士課程への進学支援、インターンシップの活用などが、産学間のすり合わせの良い機会になる。産学連携の人材育成には「互いのニーズを出し合うところから始めるのが良い」と平松さんは提案する。
※1 科学技術・学術政策研究所『民間企業の研究活動に関する調査報告2021』
※2「 わが国の将来を担う国立大学の新たな将来像」国立大学協会 2025年3月
平松浩樹(ひらまつひろき)
1965年生まれ。1989年、富士通に入社。一貫して人事部門に籍を置き、同社の人事制度改革を主導。現職は取締役執行役員専務CHRO。
※本記事に掲載している情報は、2026年3月時点のものです。