70号 LEADER’S MESSAGE 特集【博士人材の活躍】

博士人材の活躍の場を増やし、 日本社会の活性化を

 

東京大学総長
藤井 輝夫

 

今、社会は目まぐるしく変化を続けていて、そのスピードがどんどん上がり、前例にないことがたくさん起こっています。
このように、常に新しいチャレンジが求められる時代に注目されているのが、博士人材です。
海外では多くの国の政府系機関や国際機関など、多様な場で博士人材が活躍しています。
今後の人類社会の発展を考えると、日本でも博士人材の輩出とその活躍が不可欠です。
では、博士人材とはどのような人材であり、どのように育成され、どのような活躍が期待されるのでしょうか。
日本で最多の大学院学生数を有する東京大学の藤井輝夫総長にお話を伺いました。

高い専門知識と知的能力を持つ博士人材

― 今回は博士人材がテーマですが、そもそも博士人材とはどのような人材だとお考えですか。

博士号( PhD )を取得した方々は、自らの興味や関心に従って、ある領域の問題を深く掘り下げ、研究した経験の持ち主です。しかも、ただ掘り下げるだけでなく、その結果をある期間で論文などにまとめ上げ、他者に伝えられるスキルもあります。まとめると、博士人材とは、学術研究や論文執筆などのプロセスを経て、知的に高度な作業を行うことができ、しかもそれを論理立てて他者に伝える能力や資質を持つ人材であるといえます。

― 博士人材はそのまま研究者になるものと考えがちですが、博士のキャリアについてはどのようにお考えでしょうか。

研究者としてだけでなくもっと広い範囲で活躍してもらいたいと考えています。博士人材は、自身の専門分野があり、それぞれの分野についての深い見識を持っています。その見識自体もとても大切なものですが、同時に、その見識を獲得するためのプロセスも経験しています。その経験は、当然、他の分野にも活かすことができるものです。
今、地球上には乗り越えなければいけない課題がたくさんあります。博士号を持つ方々には、それぞれの専門の立場からそうした課題への視点を持ってもらいたいですね。
ただ、専門分野は確かに大切なものですが、それにこだわりすぎると活躍の幅を自ら狭めてしまう可能性があります。分野にもよりますが、博士課程で取り組んだ最先端の研究を、そのまま大学や企業で活かせることは稀ではないでしょうか。
私自身、船舶海洋工学専攻で博士号を取りましたが、その当時から研究領域が変わり、今はマイクロデバイスを使った応用マイクロ流体システムを専門にしています。
博士の皆さんは、一つのものごとをとことん深め、新たな知識を見出し、それを世界に向けて共有する経験をしてきています。その過程で、一定期間でものごとをまとめて文章などで簡潔に伝えるスキル、プレゼン能力、英語などの外国語力など、様々な能力を獲得しています。研究機関、企業、国際機関など、しっかりとした背景情報に基づいて結論を出したり、課題解決の方向性を示していくことが求められる現場はますます広がっていくと思います。また、グローバルな研究者のネットワークを持っていることも大きな価値となります。研究者間の顔が見えるネットワークは、企業活動だけでは得られないものです。様々な専門家へのアクセスが容易になることは、企業にとって大きな魅力ではないでしょうか。

― 博士号を取得した博士人材が専門以外の分野で活躍するための条件などはあるのでしょうか。

博士号を取得するために高い専門性は不可欠な要素ですが、自分の専門だけにこだわらない姿勢も必要だと思います。
高い専門性は別の領域に行ったときにも活かせます。また、課題解決を高いレベルで実践しようとするならば、多様な視点や幅広いスコープが必要です。自らの専門を深めていった経験は、領域を超えても活きてくるはずで、領域を超えることを恐れないという視点は非常に重要です。
東京大学では、2021年秋から「グリーントランスフォーメーション(GX)を先 導する高 度 人 材 育 成 」プロジェクト( SPRING GX )を開始しています。これはGX実現に向けて活躍する人材を輩出することを目的に、博士課程学生を対象として、GX関連教育プログラムと経済的支援を実施するものです。GX関連ということで、理工系だけを対象にしていると思われがちですが、全ての研究科の博士課程学生を対象にしています。
例えば、古典文学や開発経済学を学んでいる博士課程学生が、自分の専門の観点からGXについて考えることは極めて重要です。GXという全ての人々が直面する課題について、自らの視点から一定の見解を述べる、という経験を経てから社会に出ていくことは、博士人材の活躍の場を広げることにもつながります。

博士課程への進学者を増やすには

― 今、博士課程への進学者が減少しています。これは博士課程に進む人が、大学に残って研究者になる人材と見なされていることと関係しているのでしょうか。

それは大いに関係があると思います。昔は、博士課程への進学者は所属する研究室で修業して研究者の道を歩むというイメージでしたが、キャリアパスを決める主導権は今、学生側にあります。ここは指導する教員のマインドセットを変えていく必要があります。
学生には自分がやりたいことをとことん考え、追求してほしいと思います。その結果、「研究をもっと続けたい」と思えば研究者への道を進めばいいですし、「企業や官庁に進むのが向いている」と思えば、就職すればいいと思います。最近では、研究成果をもとに起業する人も出てきています。
大学は、個々の学生がきちんとイニシアチブを取って、自分の学びやキャリアを進めていけるように環境を整えていくことが大切です。本人が多様なキャリアパスを描けるように大学がサポートすることが、教育のあり方としても大切です。博士課程では、自分の興味や関心に基づいて、新たな知見を生み出すための能力や資質を養っていきますので、その力を自分に合った道で発揮してもらえるとうれしいです。
多くの学生が博士課程に進学する道をつくるためにも、まずは経済的支援が大切だと思っています。東京大学の場合
は、博士課程学生が約6,000名いますが、大学独自のものを含め約半数の学生に支援を行っています。そのうちの600名はSPRING GXによる支援です。
現在、大学院生を支援するフェローシップ制度を創設するための補助金も出ていますが、補助金はいずれなくなってしまいます。博士課程学生を継続的に支援するためには、博士人材が幅広い分野で活躍していることを社会に発信して学外、産業界からのご支援を強化するとともに、寄付金を原資としたエンダウメントからの運用益を財源とするフェローシップ制度をつくる必要があります。

― 企業では博士人材があまり活躍できていないように思います。

この問題は学生のキャリアトラックの考え方と深く関係していると考えています。今、日本は経済協力開発機構( OECD )諸国の中で、大学入学年齢が最も低い国です。日本の場合は、新卒一括採用のシステムがあるために、18歳あるいは19歳で大学へ入学し、22 〜 23歳で同時に社会へ出ていきます。理系の学生は大学院修士課程に進学する割合が大きいですが、修士課程修了年次には同じことが起こります。
企業に就職する場合、新卒一括採用のプロセスに乗らないといけないケースがまだまだ多いと思います。しかし、博士課程学生は、そのプロセスから外れると見なす企業が多いのが現状ではないでしょうか。これは学生にとって大きなハードルとなり、博士課程の志望者が減少する大きな要因となります。
しかも、アカデミアの研究者を目指すとなると、さらに多くの関門をくぐっていく必要があります。このような状況を変えるには、キャリアトラックの考え方を柔軟にする必要があると感じています。
企業から見ても、博士人材をこれまでのキャリアトラックの中にどのように組みこむかという点で難しかったのかもしれません。しかし、今は大企業でも新卒一括採用と中途採用がほぼ同数くらいになってきました。起業する人がいたり、企業からアカデミアに移動する人がいたりと、キャリアパスも多様化しています。ジョブ型採用も広がってきていますし、このような動きが広がっていけば、博士が活躍する場も広がっていくのではないかと思います。

キャリアトラックに柔軟性を

― キャリアトラックの再構築は、これまで日本ではあまり議論されてきませんでしたが、どのように考えていけばいいでしょうか。

日本の場合は、新卒一括採用のシステムが社会の中に根づいています。これまでは新卒一括採用システムのおかげで、企業は優秀な人材を定期的に確保できるなど、メリットが大きかったのだと思います。企業としてもそのシステムに合わせる必要があったのでしょう。
しかし、今は社会の状況が激しく変化する時代です。テクノロジーの進歩だけでなく、国際情勢なども急速に変化しており、企業や官庁などにおいても、常に新しいことへのチャレンジが求められています。そのような時代にこそ、時代の変化や新しいテクノロジーの登場にも対応できる博士人材が活躍できます。
そのためにも、高校を卒業したら、すぐに大学に入る、大学を卒業したら切れ目なく就職しなければならないという雰囲気も含めて、日本の社会のあり方を改めて議論すべきだと思います。私は「時間的多様性が大切だ」と各所で話していますが、学部を出て一度企業で働いてから大学院に通い直す、在学中から起業する、大学に入る前に働きに出る、といった多様な学び、キャリアパスを個々人がイニシアチブを持って描けるようにする必要があります。実は、この議論は女性活躍の観点から見ても、とても重要です。人生にはいろいろなライフイベントがあります。例えば、男性女性限らず「子育てがあるから」と仕事への力を少し緩めたり、休業したりして、それが一段落したら仕事に集中するということがもっとあってもいいと思います。
キャリアトラックの時間軸を固定したままでは、そのトラックに乗って働き続けることが難しくなる局面も出てきます。それも含めて、時間的多様性について産業界の皆さんと積極的に議論していくことが、まずは大切だと思います。人生100年時代といわれるなかで、なぜ大学に入るのは18歳で、就職するのが22歳なのかなど、改めて問い直す必要があります。

博士人材がより輝くには

― 博士人材が今より活躍するには、どういう採用・就業形態がより好ましいのでしょうか。

基本的に通年採用していただけるのであれば、それがいいと思います。同時に、就職する側のマインドセットも変わっていく必要があります。これまでは「大学を卒業、あるいは大学院を修了したら、即就職」という考え方が主流でしたが、その考え方も変わっていくとよいでしょう。
私の知っているフランスからやってきた学生は博士号を取得した後に、キッチンカーを買って事業を始めました。その後、彼は研究所に就職して研究者として働いているようですが、そのような生き方に接していると、就職やキャリアに対する考え方はもっと多様性があってもいいのではないかと思います。
高い専門性や知的能力を持つ博士人材に対しては、自分自身のキャリアを追求できるように就業時期などを自分で決められるようなある程度の自由度を持たせることを、企業や社会に認めていただければ、博士課程の魅力も上がると思います。
博士人材は、どのような課題に対してもしっかりアプローチして一定の結論を出すという一連の作業を高度にできる人材ですので、一定のトレーニングを受けた能力ある人材として然るべき場所で活躍していただきたいと考えています。私は船舶工学を学びましたが、当時は新卒で造船会社に入社して、いきなり多くの部下を持つことになるケースもあったと聞いています。新卒でしたが現場監督としての役割を期待されていたわけです。今の時代、博士人材にも同じようなことは当然、起こるでしょう。
キャリアパスがフレキシブルになることは、一方で、個人の負担が大きくなってしまうという側面もあります。今までは新卒一括採用のキャリアトラックに乗ってしまえば、ある程度は安心して職業を得られていましたが、通年採用が当たり前になれば一人ひとりが主体的に動いて職を得る必要があります。
また、日本は欧米と比べると、大学と産業界や官公庁などとの人材交流が不十分で、一方通行だと思います。企業や官庁などに勤めていた人が大学教員になるケースはありますが、その逆はあまりないのが現状です。大学教員が企業の研究員になったり、起業して自分の会社を経営するなど、大学と産業界や官公庁の間での往き来がもっとあってもいいのではないかと個人的には感じています。

― 今後、国立大学として、博士人材育成のために何をすればいいでしょうか。

日本ではたくさんの博士人材が毎年輩出されていますが、その半分以上は国立大学で育成しています。高等教育において教育と研究は不可分であり、高度で大がかりな実験設備や歴史資料のアーカイブなど、国立大学のシステムとして構築してきた様々な学術資産がありますので、国立大学にはそれらの資産をしっかりと活用して、博士教育を充実させる大きな責任があります。
大学から社会への情報発信も、十分ではなかったと思います。私たちも、今まさに産業界とのコミュニケーション活動を強化しようと取り組んでいるところです。博士人材に限らず、修士課程学生や学部生もあてはまるかもしれませんが、大学で育成された人材が社会で活躍している様子を、もっと効果的に発信していきたいと考えています。
これからの時代は国際化も大きな課題となります。国立大学が培ってきた国際交流の積み重ねもしっかりと活かし、グローバルシーンで活躍できる人材を育成していく必要があります。
東京大学は理学系や工学系だけでなく、人文系、社会科学系の多様な研究を行う大学院も有しています。東アジアにこれほど多様な研究をしている大学院があること自体、世界的にも希有な存在だと自負していますので、世界の中でも学問の多様性に貢献できる人材をたくさん輩出していきたいと考えています。
今は、テクノロジーが進歩する速度が上がり、社会情勢もどんどん変化しています。新しい状況に対応していくには、社会システムやビジネスを切り開く人材が必要で、それはまさに博士課程の教育を通して私たちが培おうとしているものです。これからの時代、博士人材は日本にますます必要となっていきますし、活躍の場も増えるでしょう。博士人材の活躍する場が増えることは、社会をより良いものにしていくことにもつながります。博士課程は、自分の興味や関心に従って深くゴールを追求するまたとない機会ですので、学生の皆さんにはぜひこの機会を活かしていただきたいと思います。

藤井 輝夫(ふじい てるお)
1964年生まれ。1988年東京大学工学部船舶工学科卒業。1993年同大学大学院工学系研究科船舶海洋工学専攻博士課程修了。博士(工学)。同大学生産技術研究所や理化学研究所での勤務を経て、2007年東京大学生産技術研究所教授、2015年同所長。その後、東京大学大学執行役・副学長、同社会連携本部長、同理事・副学長を経て、2021年4月より東京大学総長。専門は応用マイクロ流体システム、海中工学。